昭和四十三年六月五日 夜の御理解


 私のほうの愛子がお花を承ってから、お花の入れ替えをやっている訳ですが、これは、最近非常に腕が上達したと、私が言うんです。本当にこの頃良く活けるようになった。特に、小品ですね、ちょっとした茶の間とか、私の部屋なんかに小さい花瓶に活れるというのは、これは本当言うたら非常に難しいんです。ですから、大抵のことができる人でも、なかなか、私の気に入ったようには出来んのです。この頃、愛子さんが、活れますと、非常にそれがいい。
 洗面所なんかのは、「こりゃ、小品の一級品ばい」と、私が言うんです。写真にでも撮っとかなきゃいかんというて言ったぐらいでしたけども。ちょっとしたその枝の使い方というか、感覚一つで、こんなにも花が生きてくるものだろうか、たったこの一葉がこんなにも生きるものだろうかと、私は思うくらいですが、信心も同じです。
 自分の心のちょっとした使い方がですね、もう大変なおかげになってくる。自分の心の使い方がまずいともうそれでおかげを落としていくんです。実にこれは微妙なことです。いわゆる、デリケ-トな事は驚くばかりです。
 自分の心が救われる、助かるということでもそうです。一寸した事によってですね。心がすきっと暗くなったり、明るくなったり、腹の立っておったのが有難くなったりするんです。ですから、心の微妙な動きというのがですね、おかげに関わるのですから、しっかり信心の稽古をさして頂かなきゃいかんですね。どのような場合でもありがたく、有難くと頂けれるようなおかげを頂だかなならんと言うことは勿論です。
 今朝、ここ二三日北野の総代さんの堤さんが、甥御さんが自動車事故を起こしましてですね、怪我をさせたほうです。それがもう、大変問題が難しくなって、向こうのほうでは三十万要求してきた。こちらは十五万。と言うてるうちに、だんだん、向こうのほうが、大体三十万じゃ安いけんで、もう十万ばっかり加てて暮れというごとなった。それから、あただに、神様にお願いに見えておられる訳ですけれども、今日、そのことの話合いがどうしてもつかんというので、今日又、改めてお願いがありました。
 そしたらですね、本当に神様は片手落ちをなさらない。頼みにきただけがおかげじゃない。そしたら、神様からこういうことを頂くんですよ。『向こうから要求しておる三十万でも安すか』と神様仰る。こちらは十五万というておるけど、向こうからいうておる三十万。こちらは神様にお願いして少しでも安すうというところでしょうけど、三十万では安い。例えばね、損害賠償ですね。何日間休んだ。病院代がいくらかかった。車がそでたのがこのくらい。それだけなら、十五万か、二十万か、三十万か知れんけども、あちらがその時にハッと思うて、これでしまえたと思うた思いはね、二十万、三十万の金銭では買われんと神様おっしゃる。
 私はそれを頂だいてですね。本当にそうだなぁと思うですね。これは、要求しておる側にたって神様が、こちらも、そう分からしていただいたならです。本当にこげなびっくりさせてからたいね、相手に。それこそ死ぬる思いをさせてから、金が五万高かの、十万高かのとは言われん。
 というて私は、今朝はそれを堤さんに言うたって分かんなさらんから、大概いい加減なところで折り合いをつけなさいとこう申しましたけれどもです。こういうようなことですね。これは、私共の心の中に、いろいろ問題がございます。時に、御理解を頂いて、ほんの自分の心がパッとおかげのほうにひらめいた時に、もうおかげになっている。私共が、降ったり、照ったり、曇ったり、心の中にやはりありますけども、その都度都度に神様から、いわばお知らせを頂いて、すぐ「はぁ、そうだった」と思い替えができる、思い直しができる。所謂微妙な心が、微妙に有難い方に動いていくことによっておかげを頂くということなのですね。その動いていくようなおかげを頂かねばならない。そのために、お取次ぎを頂いて、御理解を頂だかなきゃならん。または、信心をして身凌ぎが出来るような信心をさしてもろうて、どういうような場合でも自分の心がすきっと、その瞬間には有難くなっていけるような、言わば、身凌ぎのでけるような信心にも早くならなければならんということが分かるでしょうが。
 心に引っ掛かったり、腹がいつまでも立っておったり、いつまでも心がくよくよしておったんではおかげは受けられんのですけども。そういう時にです、思い替えても、思い替えても、この腹が治まらない。そういう時に神様から一寸ヒントを頂く、お知らせを頂く。心がすっきりする。それがおかげを頂く元、それがですね、例えば、ここで御理解を皆さんに聞いてもらう。その御理解はですね、皆さんが、本当にすばらしい。というて頂いて下さり、又それによって助かって下さるならですね、その御理解は珠玉のようなもの。それこそ、これはテ-プにでも録って残しておかなければおられないというもの。それは私の心の微妙な動きから生まれてくるお話だから何です。信心も同じこと、おかげも同じこと。
 花でもそう。今手洗いのところに入れてあるのなんか、薔薇一輪となんとも知れん木の枝が一本入れてあるだけ。本当にこういうところにおいて勿体ない。こリゃテレビ室なっとん、私は持っていこうかと思うたぐらいでした。それが実に見事。たったその二つのものを、その具合というですかね。実に微妙なまでに。例えば木の葉が一つこっち向いとっても、あっち向いとっても、もうこういう美しさはなかろうと思われるように、私どもの心の向きが一寸有難い方へというか、おかげの頂けるほうへ方向が変わったら。おかげ頂だかなきゃなりません。
 その為にはね、私は世の中を本当に純真に生き抜かなければいけないと思うですね。世の中をね、ひねくれて一生を終わったらもうおしまい。世の中を純真に頂だかなきゃいかんです。世の中を素直に頂だかなきゃです、今日私が言うように、微妙なまでにありがたいほうにありがたいほうにということになっていかん。その有難いものは、私だけではない、自他共に助かって行けれる。自分の心が微妙なまでに展開していくことによって。それから受けていくおかげはもう、無限大につながっていく。限りがない。ですから、いかに心一つの、おかげの頂けない心をとっちめて、改めていこうという信心。または自分の心の中から、どうしてこんなにもありがたいほうへ有難い方へ、ころころと心が使こうていけるだろうかと言ったような心を、いよいよ育てていくということが信心だと思うですね。